notiaがなぜ創られたのか?

33歳で第1子、2年後、35歳で第2子を出産 。そして40歳で第3子出産 。
男の子2人、女の子1人の母になる。

20代からずっと試行錯誤、紆余曲折でも美容師としてやってきた自分が、気がつけば41〜42歳頃には、完全に子育が全ての日々になっていた。

こんな私に主人から、第3子が幼稚園入る直前に「自分でサロンをやってみないか?」と、提案されたのは忘れもしない43歳の時であった。

しかし、当時の私は子育てに疲れて「もう落ち着きたい自分」と、「自分の人生これで終わるの?」と葛藤。体力、気力のバランスがとれず 悶々とする。

主人を待たすこと数年、時間はかかったけど45歳で自分の人生を考えた時に20代から独立するために努力してきたことを思い出し「自信などないけれどやっぱりやってみたい!」と、サロンをすることを決意。

少なからず、主人がチャンスをくれた。

応援してくれる人も数人いた。

「細々でもいい、数は少ないけれどその人たちのためにもやってみたい」けど、現実は「やっぱり自信がない・・・」の板挟みになる。・・・自分の勇気のなさが嫌になる。

自信のなさから、足慣らしも兼ねて美容関係でバイトをすることにしたが、メンタルのバランスを崩しそのまま退職。

この苦い経験のお陰で「自信は全くないけれど、腹を据えてひとりでサロンをやろう。自分にはそれしか道はなかったんだ!」と、自信のない自分を奮い立たせ退路は断つ。

「あんたにはできないよ」「無理だよ」など、過去に言われた諸々の言葉を燃料に頑張る自分の性分も嫌だな〜と思いつつもそんな自分を受け入れる。

「それは昭和の根性魂だよ」と親しい友人にいわれた。 でも、結局そんな私だからこそサロンを作れたんだと今は思える。

46歳 サロンも出来上がりさてさてこれから!と、言うタイミングでコロナが流行りだす。

3人の子供の生活と、サロンワークその両立でバタバタと毎日を過ごす。

仕事と、サロンの成長(勉強)自分の余暇と、子どものための生活のバランスで色々試行錯誤な毎日。

「これでいいのか…わからない」。でも、「やるしかない」。

今よりも良くなりたい気持ちがまさって「何か私にできる事はないかな?」と、日々過ごしサロンに立つ。

49歳。自分と同じように、これまでの日々、希望に燃えたり悩んだり。笑ったり落ち込んだり。色々しながらも今の自分にOKを出して前を向く。

50歳を目前に控えた年齢となり人生100年時代をイメージしても、40代・50代・60代の成熟した女性が活躍する場は飛躍的に増えていると痛感。

その人らしい人生を反映させた美しさを提案し、年齢を受け入れてさらに愉しむ同世代の女性を応援しています。

どこにでもいる普通の私だった頃

会社員の父、専業主婦の母と3つ上の姉のいる家庭の末っ子として鎌倉市大船で生まれる。

小学校1年生まで鎌倉市で過ごす。まわりに恵まれ楽しい幼少期時代を過ごす。

小学校時代、得意なことは運動全般。体育しか得意なことがなかった。走るのが速かったおかげで、運動会は唯一の楽しみだった。

中学校。陸上部に入るが、なぜか走るのが遅くなり挫折を知るが、部活は楽しかった。当時の先生との部活日誌に「楽しさをはき違えている」と、書かれたがそんなことお構いなしに、楽しく青春だったと思える時代を過ごす。

高校に進学しても、勉強はあまり得意ではなく、大学へいっても将来が明確にみえなかったので大学進学を選択肢から外す。部活も辞めてラーメン屋、酒屋、薬局など様々なバイトを始める。

今、振り返るとこうした“普通の女の子”の時代を存分に味わえた少女時代があったので、お客様との何気ない日常の会話にも共感できるのだと思い、両親に感謝している。

美容との出会い

高2になり、“専門職”という分野で進路を看護師・調理師・美容師の3つにしぼる。最終的に、女性でも自立ができて、独立も可能な分野と思ったため美容方面に決める。

実際に何校かの学校を巡り、自分の目や感覚を基準にして選んだ美容学校で、美容師として最初に影響を受けた恩師と出会う。

ブライダルと提携していたその学校には、「アイドルになりたい!」と、言っている中卒の子が同じクラスにいることに衝撃を受けた。

さまざまな人が1つのクラスに詰められるこの現状が、慣れていくとなぜか心地よさも味わえた。

とにかく全ての実習が楽しかった。

奨学金ももらえたので、2年目からは美容師インターンとしてサロン・ 学校・結婚式場の3つで生活を送る。

学校での選択科目はエステと着付けを選択。全ての実習や学校はとても充実し楽しく過ごす。

女性でも自立できることを理由に美容の道を選択し、様々な人と触れ合い、充実した青春を過ごせた経験は、後の紆余曲折の人生のバネになった。

最初の挫折

ほぼ結婚式場に就職も決まり、忙しい時は式場にも借り出されるようになり、技術を持って女性が自立した働くことの大変さを知らされる。

華やかな結婚式場での就職を夢見ていたが一度、冷静になって考えてみようと思い、学校卒業後業界から離れようかと悩みつつも美容師の免許だけは取得する。

傷が癒えぬまま向かった先

21歳、やはり何か仕事はしなくてはいけないと考えて、美容以外の選択肢で設計の短期の学校に入学。

運よくすぐに大手企業の関連会社に就職することができた。CADというパソコンを扱う職に着くことができ、お給料も良かった。

しかし、長い人生を考えたときに自分らしい仕事がしたいと感じだし、そこからまた沸々と美容師の仕事をしたいと思うようになる。

「やっぱり美容師の仕事にまだ想いが残っていたんだ」と、周回遅れで感じる。

自分も50歳を迎える年齢を目前に控え、振り返ると美容師の世界しか知らないよりも、一般的な会社員としての生活を満喫できたことは、貴重な体験だったと痛感している。

もう何があっても美容師は辞めない

取りあえず、OLしながら美容室でバイ トをすることにした。

23歳 の時、1人サロンでのんびりやっている美容室でバイトをさせてもらったことで、美容師として再度働く意欲が湧いて、「もう 何があっても美容師は辞めない」と復活。

美容学校の恩師からの紹介で良い先生が広島 (呉)にいるということと、すぐに帰れないようにするため(それと家もそろそろでたかった)ので退社して美容師の道に返り咲く。

広島のサロンは主人が理容室を経営、奥さんが美容室を経営していた。 日に何個も予定を入れバタバタして賑やかなオーナーだった。

ひと通りのサロン業務はここで習得し、またネイルケアは褒められて重宝されたのは良い思い出。

美容師に復活はしたけれど・・・

24歳の時に再び神奈川へ戻ることに。

恩師のはからいで、今度は鎌倉にある学校の提携先サロンで働かせてもらうことになる。新しい仕事場は一般的な美容サロンとブライダルのエステをやっていた。

頑張り過ぎと精神的なストレスから突発難聴やアレルギーの発症。美容師として、人として精神的な限界を感じ退社。

そんな状況にも関わらず、再会した広島で一緒に働いていた元同僚には「有る意味強いよね」と、言われる。

振り返れば私は、心底腹ただしく思うような辛い目に遭い、その度に「負のパワーを次のステージへのパワーへ」と変えてきているのが当時の私であったからだ。

結婚と仕事の間で揺れ動く日々

その後、何店かのサロン勤務を経験しその都度、経験を積み、29歳の時に結婚。33歳で妊娠が判明したためサロン勤務を辞める。

33歳 第一子産まれる。

最後のサロンで美容師としてはやり切った感もあり、しばらくは子育てを中心にする人生もありかと思い、美容師の仕事以外にも目を向ける余裕が生まれる。

そこで、以前から力を入れたかったエステ分野の資格を再度とることを決意。

短期間だったがエステスクールへ再度通えたことはとても充実でき楽しかった。

年齢も環境も志も様々な人たちと会える環境は、とても刺激的で元気をもらえた。子育てで悶々としている私が生き返れた場所だった。

35歳 第2子誕生 。

エステ学校で知り合ったエステオーナーのところで業務委託的に、働かせてもらうことになる。仕事内容はエステよりもヘア関連業務が多かった。

38歳、サロンが閉店し一旦、また現場から身を引くことになる。

40歳 、第3子誕生 。

41・2歳 完全に子育て中心の生活の私を見た主人から、第3子が幼稚園入る手前に「自分でサロンをやってみないか?」と、提案を受ける。忘れもしない43歳の時であった。

しかし、当時の私は子育てに疲れて「もう落ち着きたい自分」と、「自分の人生これで終わるの?」と葛藤する。体力、気力のバランスがとれず 鬱々としながら日々を過ごす。

そして、この話しが冒頭の「Notiaがなぜ創られたのか」につながります。

ここまでの長文をお読みいただきありがとうございます。

若い時からあっちこっちにぶつかりつつも、自分らしい仕事がしたいと、奮闘したてきた結晶が今のお店の土台になっております。